フェーズ0物理像と前提の補強 — 電池の中で何が起きているか
リチウムイオン電池の DFN(Doyle–Fuller–Newman)モデルは、5 本の偏微分方程式が絡み合う 立派な数理モデルです。しかし、その一つひとつは「電池の中で起きている素朴な物理」の翻訳にすぎません。 この章では数式に飛び込む前の準備運動として、(1) セルの構造と反応の物理像、 (2) これから登場する変数たちの顔ぶれ、(3) 全体を貫く道具である拡散方程式、の 3 つを固めます。 電気化学の知識はいっさい仮定しません。
0.1 リチウムイオン電池の中身 — サンドイッチ構造とインターカレーション
スマートフォンや電気自動車に入っているリチウムイオン電池の「セル(cell)」を 1 枚だけ取り出して、 厚み方向にまっぷたつに切ったところを想像してください。見えるのは、厚さがヒトの髪の毛(約 80 µm)ほどの 薄い層が重なったサンドイッチ構造です。本サイトで一貫して使う LG M50 セル(Chen et al. 2020 のパラメータ、以下 Chen2020)では、 各層の厚さは次のとおりです:負極 85.2 µm、セパレータ 12.0 µm、正極 75.6 µm。 合計しても約 0.17 mm しかありません。実際の円筒セルは、この薄いサンドイッチを 何十周もロール状に巻いて缶に収めたものです。
0.1.1 5 つの構成要素
| 部位 | 材料(Chen2020 の例) | 役割 |
|---|---|---|
| 負極(negative electrode) | 黒鉛(グラファイト、$\mathrm{C_6}$)の微粒子 | 満充電時にリチウムを蓄えておく「倉庫」。放電時にリチウムを放出する。 |
| 正極(positive electrode) | NMC811($\mathrm{LiNi_{0.8}Mn_{0.1}Co_{0.1}O_2}$)の微粒子 | 放電時にリチウムを受け入れる側の「倉庫」。 |
| 電解液(electrolyte) | リチウム塩($\mathrm{LiPF_6}$)を有機溶媒に溶かした液体 | セル内部での Li+ イオンの通り道。電子は通さない。 |
| セパレータ(separator) | 多孔質ポリマー膜 | 正負極の物理的接触(短絡)を防ぎつつ、細孔を通してイオンだけを通す。 |
| 集電体(current collector) | 負極側:銅箔、正極側:アルミ箔 | 電極で生まれた電子を外部回路へ取り出す(または受け入れる)金属の端子。 |
物理的な意味:電極は「粒の詰まったスポンジ」
負極も正極も、金属板のような一枚岩ではありません。直径 10 µm 程度の 活物質粒子(active material particle)をバインダで固めた 多孔質(porous)の層で、粒子のすき間には電解液が染み込んでいます。 つまり電極の内部では、固体の粒子(電子と Li の住処)と液体の電解液(Li+ の通り道)が 入り組んで共存しています。この「固相と液相の二重構造」こそ、DFN モデルが 固相・液相それぞれに変数を持つ理由です(0.3 節)。
0.1.2 インターカレーション(挿入)反応とは何か
リチウムイオン電池の心臓部はインターカレーション(intercalation、挿入)と呼ばれる反応です。 黒鉛は炭素原子の平面(グラフェン層)が何層も重なった結晶で、その層と層のすき間に リチウム原子がすっぽり収まることができます。NMC のような層状酸化物も同様に、結晶格子の中に リチウムの「席」を持っています。インターカレーションとは、 ホスト結晶の骨格を壊さずに、ゲスト(リチウム)が席に出入りする反応のことです。 劇的な構造変化を伴わないため、何千回も繰り返せる — これが二次電池(充電できる電池)として 優れている理由です。
負極(黒鉛)の反応を化学式で書くと次のようになります。左向き・右向き両方に進めるので 両矢印 $\rightleftharpoons$ で書きます:
この式の意味を言葉でほどくと:
- $\mathrm{LiC_6}$:炭素 6 個あたりリチウム 1 個が層間に収まった状態(黒鉛の満員状態)。
- 右向き(放電):層間のリチウムが、イオン $\mathrm{Li^+}$ と電子 $\mathrm{e^-}$ に分かれて粒子表面から出ていく。 電子を失う反応なので酸化(oxidation)と呼びます。
- 左向き(充電):電解液中の $\mathrm{Li^+}$ と外部から来た $\mathrm{e^-}$ が粒子表面で合流し、 リチウムとして層間に収まる。電子を受け取る反応なので還元(reduction)です。
正極(NMC)側の反応は、$\mathrm{M} = \mathrm{Ni_{0.8}Mn_{0.1}Co_{0.1}}$ と略記して:
ここで $x$ は正極結晶から抜けているリチウムの割合($0 \le x \le 1$ 程度、無次元)です。 放電時は右向き:電解液から来た $\mathrm{Li^+}$ と外部回路から来た $\mathrm{e^-}$ が 正極粒子の表面で出会い、結晶内の空席に収まります(還元)。 充電時は左向きに、リチウムが引き抜かれます(酸化)。
物理的な意味:エネルギーはどこに蓄えられているのか
同じリチウム原子でも、「黒鉛の層間にいる状態」は「NMC の結晶にいる状態」よりも 化学的に不安定、すなわちエネルギーが高い状態です(その差はリチウム 1 mol あたり おおよそ $F \times 4\,\mathrm{V} \approx 390$ kJ。$F$ は後述のファラデー定数)。 充電とは、外部から電気の仕事を注ぎ込んでリチウムを居心地のよい正極から居心地の悪い負極へ 「持ち上げる」操作です。放電はその逆で、リチウムが正極へ「転がり落ちる」ときに解放される エネルギーを、電子に外部回路の負荷(モーターなど)を通らせることで仕事として回収します。
0.1.3 放電時・充電時に何がどう動くか
ここで決定的に重要なのが、電子とイオンの通り道が完全に分離されていることです。
- 電解液・セパレータは Li+ イオンを通すが、電子をまったく通さない(電子絶縁体)。
- 外部回路(金属導線)は電子を通すが、イオンは通れない。
- 活物質粒子と集電体は電子を通す(だから粒子表面まで電子が届く)。
放電時の流れを負極から順に追うと: ① 負極粒子の表面で $\mathrm{LiC_6} \to \mathrm{C_6} + \mathrm{Li^+} + \mathrm{e^-}$(酸化)。 ② 生まれた $\mathrm{Li^+}$ は電解液に溶け出し、セパレータの細孔を抜けて正極側へ拡散・泳動していく。 ③ 生まれた $\mathrm{e^-}$ は粒子から銅集電体へ抜け、外部回路の負荷を通って仕事をしながら アルミ集電体へ到着する。 ④ 正極粒子の表面で $\mathrm{Li^+}$ と $\mathrm{e^-}$ が再会し、NMC 結晶へ挿入される(還元)。 充電時は外部電源がこのすべてを逆向きに駆動します。
注意:イオンと電子は「同じ向きに回る」
放電時、セルの内部では Li+ が負極→正極へ、 外部回路では電子が負極→正極へ動きます。つまり両者は回路全体で見ると 同じ向きにぐるっと一周する電流ループを作ります。 「電解液が電子を通さない」からこそ、電子は必ず外部回路を経由させられ、 その通り道に負荷を置くことでエネルギーを取り出せる — これが電池という装置の設計原理です。
「放電」「充電」ボタンで切り替えると、Li+(緑の粒、セル内部)と e−(灰色の粒、外部回路)の移動方向と矢印が反転します。 電子が必ず外部回路を通り、イオンが必ず電解液を通ることに注目してください。
0.2 なぜ物理モデルが必要か — 等価回路から DFN へ
電池の振る舞いを数式で表す方法には、大きく分けて 2 つの流儀があります。 「外から見た応答を回路部品で真似る」等価回路モデルと、 「中で起きている物理を微分方程式で書き下す」物理ベースモデルです。 本サイトの主役 DFN は後者の代表ですが、なぜわざわざ偏微分方程式を 5 本も解くのか、 まず前者との対比で動機をはっきりさせます。
0.2.1 等価回路モデル(ECM)とその限界
等価回路モデル(equivalent circuit model, ECM)は、電池を 「充電状態 SOC に応じて電圧が変わる電圧源 $U(\mathrm{SOC})$ [V]」+「直列抵抗 $R_0$ [Ω]」+ 「抵抗とコンデンサの並列対($R_1$–$C_1$)を 1〜数個」で表します:
ECM は計算が圧倒的に軽く、車載の電池管理システム(BMS)でリアルタイムに走らせるには最適です。 しかし部品の値($R_0, R_1, C_1, \dots$)は実測データへのカーブフィットで決めた「つじつま合わせ」であり、 物理的な実体を持ちません。その結果:
- 外挿が効かない:フィットに使った温度・電流・劣化状態の範囲を外れると精度が急落する。
- 内部状態が見えない:「急速充電中に負極表面でリチウム金属が析出しそうか?」 「電極内のどこが働きすぎているか?」といった、劣化や安全性に直結する問いにまったく答えられない。
- 設計に使えない:電極を厚くしたら?粒子を小さくしたら?という設計変更の影響を予測できない (回路部品と設計パラメータがつながっていないため)。
物理ベースモデルはこの3つすべてに答えるために、電極の厚さ・粒径・拡散係数といった 物理的に測定できるパラメータから出発し、セル内部の濃度や電位の分布そのものを解きます。 その代償が計算コストであり、コストと忠実さのトレードオフの上に「モデルの階層」が生まれます。
0.2.2 モデルの階層:SPM → SPMe → DFN
本サイトはこの階層を下から順に登っていきます。それぞれのモデルが「何を無視し、何を解くか」を 先に一覧しておきます(用語の意味はこの章と次章で順に定義します):
| モデル | 主な近似 | 解く場 | 計算コスト | 本サイトの章 |
|---|---|---|---|---|
| SPM (単一粒子モデル) |
各電極を代表粒子 1 個で代表。電解液は完全に一様と仮定。 | 粒子内濃度 $c_s(r,t)$ ×2 | 最小 | フェーズ2 |
| SPMe (電解液つき SPM) |
SPM に電解液の濃度変化(拡散)を追加。反応は電極内で一様のまま。 | $c_s(r,t)$ ×2 + 電解液濃度 $c_e(x,t)$ | 小 | フェーズ3 |
| DFN (= P2D、Newman モデル) |
電極内の位置 $x$ ごとに反応の強さの違いまで解く。フル物理。 | $c_s(x,r,t),\ c_e(x,t),\ \phi_s(x,t),\ \phi_e(x,t),\ j(x,t)$ | 大 | フェーズ5 |
道筋はこうです。まずフェーズ1で DFN の支配方程式 5 本をゼロから導出します。 導出を先に済ませるのは、SPM も SPMe も「DFN の項をいくつか眠らせた特殊ケース」として 統一的に理解できるからです。フェーズ2・フェーズ3で SPM・SPMe を実際に解いて感覚を掴み、フェーズ4で偏微分方程式を 数値的に解く技術(離散化・安定性)を身につけ、フェーズ5で DFN 本体を組み立てます。 フェーズ6は熱・劣化などの拡張です。
0.2.3 なぜ「擬似二次元(P2D)」と呼ばれるのか
DFN モデルは P2D(pseudo-two-dimensional、擬似二次元)モデルという別名を持ちます。 「二次元」なのに「擬似」が付く理由は、モデルが持つ 2 つの座標 $x$ [m] と $r$ [m] の関係が、普通の 2 次元空間 $(x, y)$ とは違うからです。
上の図が P2D の全体像です。マクロには、セルは厚み方向の 1 次元($x$ 軸、負極集電体を $x=0$、 正極集電体を $x=L$)で記述されます。電解液の濃度や電位はこの $x$ の関数です。 一方、電極の中の各位置 $x$ には活物質粒子があり、リチウムが粒子の中を 中心向き・表面向きに拡散します。粒子は球と近似できるので、この「ミクロの問題」は 半径座標 $r$($0 \le r \le R_s$、$R_s$ [m] は粒子半径)の 1 次元拡散問題になります。
つまり DFN は「1 次元($x$)の各点に、もう 1 本の 1 次元($r$)の問題がぶら下がった」構造をしています。 $x$ と $r$ は同じ空間の直交座標ではないので、本当の 2 次元偏微分方程式(例えば $\partial^2/\partial x^2 + \partial^2/\partial r^2$ が現れるような)にはなりません。2 つの世界をつなぐのは、粒子表面での反応流束(0.3 節で導入する $j$)だけです。 この構造ゆえに「擬似」二次元と呼ばれます。
まとめ:このサイトのロードマップ
等価回路モデルは軽いが「中身」を持たない。内部状態・外挿・設計に答えるには物理モデルが必要。 その最上位が DFN(= P2D)で、マクロ座標 $x$ とミクロ座標 $r$ の二重構造を持つ。 本サイトでは、フェーズ1で方程式を導出したあと、SPM(フェーズ2)→ SPMe(フェーズ3)→ 数値解法(フェーズ4)→ DFN(フェーズ5)と、簡単なモデルから順に積み上げる。
0.3 登場する変数たち — 誰がどこに住んでいるか
DFN モデルの登場人物は、実質的に 6 つの変数です。偏微分方程式のモデルでは、 変数ごとに「値」だけでなく「定義域 = セルのどこに住んでいるか」を把握することが決定的に重要です (境界条件はまさに「住処の端」で課されるからです)。ここで全員の顔と住所を覚えてしまいましょう。 記号と単位は本サイト全体で共通です。
変数の住処をセル断面に書き込むと次のようになります:
住所録としてまとめると:
| 変数 | 意味 | 単位 | 住処(定義域) | 決める方程式(フェーズ1で導出) |
|---|---|---|---|---|
| $c_s(x,r,t)$ | 固相 Li 濃度 | mol/m³ | 電極内の各粒子の内部($0 \le r \le R_s$) | 固相拡散(球座標のフィック第二法則) |
| $c_e(x,t)$ | 電解液塩濃度 | mol/m³ | 全域 $0 \le x \le L$ | 液相の物質保存(拡散+反応ソース) |
| $\phi_s(x,t)$ | 固相電位 | V | 負極・正極のみ | 固相の電荷保存(オームの法則) |
| $\phi_e(x,t)$ | 液相電位 | V | 全域 $0 \le x \le L$ | 液相の電荷保存(修正オームの法則) |
| $j(x,t)$ | 界面電流密度 | A/m² | 電極内の粒子表面 | Butler–Volmer 反応速度式 |
| $V(t)$ | 端子電圧 | V | スカラー(出力) | $V=\phi_s(L)-\phi_s(0)$ |
注意:符号の約束(全章共通)
印加電流密度 $I$ [A/m²](電極面積あたり)は放電を正、 界面電流密度 $j$ は酸化(粒子から Li が出る)方向を正とします。 すると放電時($I \gt 0$)は、負極でリチウムが出るので $j \gt 0$、 正極ではリチウムが入るので $j \lt 0$ になります。充電時はすべて逆符号です。 符号の取り違えは電池モデルの実装で最も多いバグ源なので、この約束を胸に刻んでください。
0.4 電位と電気化学の最小限の直感
フェーズ1では Butler–Volmer 式やネルンストの関係を正面から導出しますが、 その前に「電極の電位とは何か」「なぜ電流を流すと電圧が下がるのか」の直感だけ先に作っておきます。 この節は厳密さより物理像を優先します。
0.4.1 電極電位と開回路電位 U(θ)
活物質粒子を電解液に浸すと、粒子表面でリチウムが「出たい」(酸化)と「入りたい」(還元)のせめぎ合いが起き、 ごく短時間で釣り合いに達します。このとき固相と液相の間には自然に電位差が生まれます。 この平衡状態での電位差を開回路電位(open-circuit potential, OCP)と呼び、 $U$ [V] と書きます。重要なのは、$U$ が材料の種類だけでなく 詰まり具合 $\theta$(表面化学量論)の関数 $U(\theta)$ であることです。 リチウムがたくさん詰まっているほど「出たがり」になり、電位は下がります。
Chen2020 のフィット関数(本サイトの params.js に ocpN(theta),
ocpP(theta) として実装済み)によると、リチウム金属基準で、
黒鉛の $U_n$ は約 0.05〜0.3 V の低い電位に階段状のプラトー(平坦部)を持ち、
NMC811 の $U_p$ は約 3.5〜4.3 V の高い電位でなだらかに変化します。
この「高い棚」と「低い棚」の組み合わせがセル電圧の源です。
0.4.2 開回路電圧(OCV):電池を休ませたときの電圧
セル全体を十分長く休ませる(電流ゼロで放置し、内部の濃度勾配がすべて緩和する)と、 端子電圧は開回路電圧(open-circuit voltage, OCV)に落ち着きます。 それは単純に両電極の OCP の差です:
$$ V_{\mathrm{OCV}} = U_p(\theta_p) - U_n(\theta_n) $$Chen2020 の値で確かめると、満充電(100% SOC)では $\theta_n = 0.9014,\ \theta_p = 0.270$ で $U_n = 0.092$ V、$U_p = 4.273$ V、よって $V_{\mathrm{OCV}} = 4.18$ V。 完全放電(0% SOC)では $\theta_n = 0.0279,\ \theta_p = 0.9084$ で $U_n = 1.064$ V、$U_p = 3.561$ V、$V_{\mathrm{OCV}} = 2.50$ V — ちょうど放電下限電圧です。 放電が進むと $\theta_n$ が減って $U_n$ が上がり、$\theta_p$ が増えて $U_p$ が下がる。 両側から挟み撃ちで OCV が下がっていくわけです。
0.4.3 なぜ電流を流すと電圧が下がるのか:3 つの損失
実際に電流を流すと、端子電圧は OCV より必ず低くなります(充電時は逆に高くなります)。 犯人は 3 種類の「損失」で、DFN はこの 3 つをすべて第一原理から計算します:
- 反応の損失(反応過電圧):粒子表面の反応を有限の速さで進めるには、 平衡からの「押し込み」が必要です。この押し込み量が過電圧(overpotential) $\eta = \phi_s - \phi_e - U(\theta)$ [V] です。$\eta = 0$ なら反応は正味ゼロ(平衡)。 $\eta \gt 0$ なら酸化が勝ち($j \gt 0$)、$\eta \lt 0$ なら還元が勝ちます($j \lt 0$)。 $\eta$ と $j$ の定量的な関係が Butler–Volmer 式で、フェーズ1で導出します。
- オームの損失:電子が固相を、イオンが電解液を流れるとき、 それぞれの導電率が有限なので電位が勾配を持ちます($\phi_s$、$\phi_e$ が $x$ 方向に傾く)。 ふつうの抵抗による電圧降下と同じ仕組みです。
- 拡散(濃度)の損失:放電中、粒子表面のリチウムは内部からの補給が 追いつかず、表面濃度 $c_{s,\mathrm{surf}}$ が粒子平均より先に減ります(正極では先に増えます)。 電圧を決めるのは表面の $\theta$ なので、OCV が「見かけ上」早く下がります。 電解液側でも濃度勾配が電位差を生みます(濃度過電圧)。拡散が遅いほど深刻になる損失で、 0.5〜0.6 節の主役です。
まとめると、放電中の端子電圧はおおまかに次のように分解できます:
$$ V \;\approx\; \underbrace{U_p(\theta_{p,\mathrm{surf}}) - U_n(\theta_{n,\mathrm{surf}})}_{\text{③ 表面の充填率で決まる OCV}} \;+\; \underbrace{(\eta_p - \eta_n)}_{\text{① 反応過電圧}} \;+\; \underbrace{\Delta\phi_{\mathrm{ohm}}}_{\text{② オーム損}} $$放電時は $\eta_n \gt 0$、$\eta_p \lt 0$ なので第 2 項は負、オーム項も負、 さらに第 1 項も表面濃度の偏りのぶん静的な OCV より低い — かくして $V$ は OCV を下回ります。 この式の厳密な形と各項の大きさの評価は、フェーズ1で方程式を揃えたあと、 フェーズ2・3・5 で段階的に行います。
物理的な意味:水槽のアナロジー
高い位置の水槽(負極)から低い位置の水槽(正極)へ、細い配管で水を流す様子を想像してください。 水位差が OCV、配管の細さがオーム損+反応過電圧に対応します。さらに各水槽の中では 水面がすぐには均されず、出口付近だけ先に水位が下がる — これが拡散損(表面濃度の偏り)です。 流量(電流)を増やすほど 3 つの損失はすべて大きくなり、取り出せる水位差(電圧)は下がります。
注意:測れるのは V と I だけ
実験で直接測れるのは端子電圧 $V$ と電流 $I$ だけです。$\phi_e$、$\eta$、$c_s$、$c_e$ は セルを壊さずには(特殊な参照電極や中性子回折などを使わない限り)見えません。 「見えない内部状態を、物理法則を頼りに再構成する」— これが 0.2 節で述べた 物理モデルの存在意義そのものです。
0.5 拡散方程式の復習 — フィックの法則から特徴時間まで
DFN の 5 本の支配方程式のうち 2 本(固相拡散・液相物質保存)は拡散方程式そのものです。 さらに残りの電位の方程式も「勾配が流れを駆動する」という同じ数学的骨格を持ちます。 つまり拡散方程式を完全に理解すれば、DFN の半分は終わったようなものです。 この節では、偏微分方程式の授業で拡散方程式に触れたことはあるが自信はない、という読者を想定して、 流束の定義から 1 ステップずつ組み立て直します。
0.5.1 流束の定義とフィックの第一法則
経験則として、物質は濃度の高い側から低い側へ、濃度勾配に比例した速さで流れます。 これをフィックの第一法則(Fick's first law)と呼びます:
ここで $c(x,t)$ は濃度 [mol/m³]、$D$ は拡散係数(diffusion coefficient) [m²/s] です。 単位の整合を確認しておきます:右辺は $[\mathrm{m^2/s}] \times [\mathrm{mol/m^3}]/[\mathrm{m}] = \mathrm{mol/(m^2\,s)}$ となり、たしかに流束の単位と一致します。この確認のクセは、今後複雑な式が出てくるたびに役立ちます。
物理的な意味:マイナス符号は「下り坂に流れる」
$\partial c/\partial x \gt 0$(右へ行くほど濃い)のとき $N \lt 0$、つまり流れは左向き — 濃い側から薄い側へ、坂を下る向きです。ミクロに見れば、各分子はでたらめに歩き回っているだけ (ランダムウォーク)ですが、濃い場所からは「出ていく分子」が多く、薄い場所からは少ないので、 正味では濃→薄の流れが現れます。誰も「薄い方へ行こう」と思っていないのに 集団としては整然と流れる、というのが拡散の面白さです。
仮定と近似
この節では (1) 1 次元、(2) $D$ は定数、(3) 対流(液体の流動)なし、(4) 反応による生成・消滅なし、 を仮定します。DFN では (2) が破れ($D_e$ は濃度依存)、(4) も破れます(反応ソース項が付く)が、 骨格は変わりません。破れたときにどう直すかはその都度示します。
0.5.2 質量保存からフィックの第二法則へ
フィックの第一法則は「流れの速さ」を教えてくれますが、知りたいのは「濃度が時間とともにどう変わるか」です。 そこで質量保存則(mass conservation)と組み合わせます。 導出は微小体積の収支勘定という、連続体の方程式すべてに共通する定跡です。
導出:1 次元の拡散方程式
位置 $x$ から $x+\Delta x$ の間の薄い箱(断面積 $A$ [m²]、体積 $A\,\Delta x$)を考える。 箱の中の物質量 $M(t)$ [mol] は、$\Delta x$ が小さければ濃度×体積で近似できる:
$$ M(t) \approx c(x,t)\, A\, \Delta x $$箱の中身が変わる理由は「左の壁から入る」か「右の壁から出る」しかない(生成・消滅なしの仮定)。 左の壁($x$)から単位時間に入る量は $A\,N(x,t)$、右の壁($x+\Delta x$)から出る量は $A\,N(x+\Delta x,t)$。よって収支は:
$$ \frac{dM}{dt} = A\,N(x,t) - A\,N(x+\Delta x,t) $$(1) を代入し、両辺を体積 $A\,\Delta x$ で割る:
$$ \frac{\partial c}{\partial t} = -\,\frac{N(x+\Delta x,t) - N(x,t)}{\Delta x} $$$\Delta x \to 0$ の極限をとると、右辺は微分の定義そのものになる。 これが連続の式(保存則の微分形):
$$ \frac{\partial c}{\partial t} = -\,\frac{\partial N}{\partial x} $$言葉にすると「濃度の時間変化 = 流束の湧き出しの逆符号」。流束が場所によって変わらなければ ($\partial N/\partial x = 0$)、入る量と出る量が等しく、濃度は変わりません。
フィックの第一法則 $N = -D\,\partial c/\partial x$ を代入する($D$ 一定):
$$ \frac{\partial c}{\partial t} = -\,\frac{\partial}{\partial x}\!\left(-D\,\frac{\partial c}{\partial x}\right) = D\,\frac{\partial^2 c}{\partial x^2} $$物理的な意味:2 階微分は「凹凸センサー」
$\partial^2 c/\partial x^2$ は濃度プロファイルの曲がり具合です。谷(下に凸、2 階微分が正)では 両隣より濃度が低いので周囲から流れ込み、濃度が増える。山(上に凸、2 階微分が負)では逆に減る。 つまり拡散方程式は「出っ張りを削り、へこみを埋めて、プロファイルをなめらかに均していく」 方程式です。図0.2 でこの動きを目で確認できます。
2 つ補足します。第一に、$D$ が場所や濃度に依存する場合は (5) の代入で $D$ を微分の外に出せないので、 発散形(divergence form)のまま扱います: $\partial c/\partial t = \frac{\partial}{\partial x}\left(D\,\frac{\partial c}{\partial x}\right)$。 DFN の液相方程式はまさにこの形です。第二に、球対称な粒子内の拡散では、 箱の代わりに球殻(半径 $r$、表面積 $4\pi r^2$)で同じ収支勘定をすると
$$ \frac{\partial c_s}{\partial t} = \frac{1}{r^2}\frac{\partial}{\partial r}\!\left(D_s\, r^2\, \frac{\partial c_s}{\partial r}\right) $$が得られます($D_s$ [m²/s] は固相拡散係数)。表面積 $4\pi r^2$ が $r$ とともに変わることが $r^2$ の因子の正体です。丁寧な導出はフェーズ1で行いますが、 「1 次元版と同じ収支勘定を球殻でやっただけ」という見通しをここで持っておいてください。
0.5.3 境界条件と初期条件 — 物理の言葉で
拡散方程式は時間について 1 階、空間について 2 階の偏微分方程式なので、解を一意に決めるには 初期条件 1 つと境界条件 2 つ(両端に 1 つずつ)が必要です。 境界条件には代表的な 2 つの型があり、物理的な意味がまったく違います。
- ディリクレ(Dirichlet)境界条件 = 濃度を固定: $c(0,t) = c_{\mathrm{b}}$($c_{\mathrm{b}}$ [mol/m³] は定数)。 物理的には「境界が巨大なリザーバ(濃度の変わらない海)に接している」状況です。 境界を通じて物質はいくらでも出入りできますが、境界での濃度の値は外部に固定されます。
- ノイマン(Neumann)境界条件 = 流束を固定: $-D\,\partial c/\partial x |_{x=0} = N_0$($N_0$ [mol/(m²·s)] は指定値)。 物理的には「境界を通る流れの量を指定する」状況です。特に $N_0 = 0$ は 「壁」= 物質を通さない境界で、断熱壁の物質版です。
実は、DFN に現れる濃度場の境界条件はすべてノイマン型です。対応表を見てください:
| DFN のどこか | 境界条件 | 型 | 物理的な意味 |
|---|---|---|---|
| 粒子の中心 $r=0$ | $\displaystyle \frac{\partial c_s}{\partial r}\Big|_{r=0} = 0$ | ノイマン(流束ゼロ) | 球対称なら中心を正味の流れが横切ることはない(対称性)。 |
| 粒子の表面 $r=R_s$ | $\displaystyle -D_s \frac{\partial c_s}{\partial r}\Big|_{r=R_s} = \frac{j}{F}$ | ノイマン(流束指定) | 表面反応が Li を出し入れする。$j/F$ [mol/(m²·s)] はまさに 0.3 節の反応モル流束 $j_n$。 マクロとミクロはこの 1 行でつながる。 |
| 集電体 $x=0,\ x=L$ | $\displaystyle \frac{\partial c_e}{\partial x} = 0$ | ノイマン(流束ゼロ) | 集電体(金属箔)はイオンを通さない壁。Li⁺ はセルの外に出られない。 |
初期条件は $c(x,0) = c_{\mathrm{init}}(x)$ の形で「スタート時点の分布」を与えます。 電池なら「十分休ませた状態」= 一様な分布($c_e = c_{e0}$、$c_s$ は SOC に応じた一様値)が定番です。
物理的な意味:流束ゼロの境界では総量が保存される
連続の式 $\partial c/\partial t = -\partial N/\partial x$ を区間 $[0, L]$ で積分すると $\frac{d}{dt}\int_0^L c\,dx = N(0,t) - N(L,t)$。両端が流束ゼロ($N=0$)なら右辺はゼロ、 つまり総量 $\int c\,dx$ は時間によらず一定です。電池では「セル内の Li の総量は変わらない」 という当たり前の物理に対応し、数値計算の検算(保存則チェック)としても超強力です。 図0.2 の画面に総量を表示してあるのはこのためです。
0.5.4 特徴的な拡散時間 τ = L²/D
「長さ $L$ [m] の領域を、拡散係数 $D$ [m²/s] の拡散が均すのにかかる時間はどれくらいか?」 この見積もりが一発でできるようになると、電池モデルの設計判断(どの現象を解き、どれを無視するか)が 自分でできるようになります。答えは:
これを 2 通りの方法で導きます。まず次元解析、次に厳密解です。
導出 A:次元解析
手持ちの材料は $L$ [m] と $D$ [m²/s] の 2 つだけ。この 2 つから時間の次元 [s] を持つ量を作る。 $L^a D^b$ の次元は $\mathrm{m}^{a+2b}\,\mathrm{s}^{-b}$ だから、 $\mathrm{s}^1$ にするには $-b = 1$ かつ $a + 2b = 0$、すなわち $b = -1,\ a = 2$。
$$ \tau = \frac{L^2}{D} \quad\text{(これ以外の組み合わせは存在しない)} $$裏返すと、時間 $t$ の間に拡散が届く距離(拡散長)は $\ell(t) \sim \sqrt{D t}$。 「拡散距離は時間の平方根でしか伸びない」— 2 倍の距離を均すには 4 倍の時間がかかる。 これが拡散のもっとも重要な性質です。
導出 B:sin モードの厳密な減衰解
両端をディリクレ条件 $c(0,t) = c(L,t) = 0$ で固定し、初期分布として山型 $c(x,0) = c_0 \sin(\pi x / L)$($c_0$ [mol/m³] は振幅)を与える。 解を「形は変えず、高さだけ変わる」と推測する:
$$ c(x,t) = f(t)\,\sin\!\left(\frac{\pi x}{L}\right), \qquad f(0) = c_0 $$拡散方程式の左辺と右辺に代入して計算する。左辺は時間微分:
$$ \frac{\partial c}{\partial t} = f'(t)\,\sin\!\left(\frac{\pi x}{L}\right) $$右辺は空間 2 階微分($\sin$ を 2 回微分するとマイナスが出て自分自身に戻る):
$$ D\,\frac{\partial^2 c}{\partial x^2} = -D\,\frac{\pi^2}{L^2}\, f(t)\,\sin\!\left(\frac{\pi x}{L}\right) $$両辺の $\sin(\pi x/L)$ は共通なので割り落とせて、$f(t)$ の常微分方程式が残る:
$$ f'(t) = -\frac{\pi^2 D}{L^2}\, f(t) $$これは指数減衰の方程式。$f(0) = c_0$ とあわせて解けば:
$$ f(t) = c_0 \exp\!\left(-\frac{\pi^2 D}{L^2}\, t\right) $$よって厳密解は:
$$ c(x,t) = c_0\, \sin\!\left(\frac{\pi x}{L}\right) \exp\!\left(-\frac{\pi^2 D}{L^2}\, t\right) $$減衰の時定数(高さが $1/e \approx 37\%$ になる時間)は $\tau_1 = \dfrac{L^2}{\pi^2 D} \approx 0.10\,\dfrac{L^2}{D}$。 次元解析の $\tau = L^2/D$ と係数 $\pi^2 \approx 10$ だけ違いますが、桁の見積もりとしては同じです。 $\tau = L^2/D$ は「その頃には確実に均されている」側の安全な目安、と覚えてください。
もう一つの読み方として、初期分布が波数の高いモード $\sin(k\pi x/L)$($k = 2, 3, \dots$)を含む場合、 それぞれの減衰率は $\exp(-k^2 \pi^2 D t / L^2)$ で、細かい凹凸ほど $k^2$ 倍速く消えます。 だからどんなギザギザの初期分布も、まず細部が瞬時に均され、最後は最も遅い $k=1$ モードだけが ゆっくり残る — 拡散の遅さを支配するのは常に「一番大きなスケール」です。 なお、図0.2 のような流束ゼロ(ノイマン)境界では固有モードが $\cos(k\pi x/L)$ に変わりますが、 減衰率は同じ $\exp(-k^2\pi^2 D t/L^2)$ で、$k=0$ モード(=平均値)だけが減衰せず生き残ります。 これが「総量保存」のモード分解的な見方です。
初期分布を選び、「▶ 再生」で時間発展を眺めてください($t = 2\tau$ で自動停止)。 見どころ:(1) 凹凸が均されて平均値(点線)に収束する。(2) $D$ や $L$ を変えると 画面に表示される $\tau = L^2/D$ が変わり、収束の実時間も変わる。 (3) 総量 $\int c\,dx$ の初期比が 100.000000 % のまま動かない(流束ゼロ境界の保存則)。 cos モードは固有モードなので「形を保ったまま高さだけ」指数減衰し、 sin モードは境界条件に合わない成分がまず端で調整されてから減衰します。
0.5.5 数値でも解いてみる:FTCS 陽解法
解析解が使えるのは単純な形状・境界条件のときだけです。DFN に進むには数値解法が必須なので、 最初の一歩として最も素朴な陽解法(FTCS: Forward-Time Centered-Space)を体験しておきます。 空間を $N_x$ 点の格子($x_i = i\,\Delta x$)、時間を $t^n = n\,\Delta t$ で刻み、 微分を差分で置き換えます:
$$ \frac{c_i^{n+1} - c_i^n}{\Delta t} = D\,\frac{c_{i+1}^n - 2 c_i^n + c_{i-1}^n}{\Delta x^2} \;\;\Longrightarrow\;\; c_i^{n+1} = c_i^n + \frac{D\,\Delta t}{\Delta x^2}\left(c_{i+1}^n - 2 c_i^n + c_{i-1}^n\right) $$右辺がすべて既知の時刻 $n$ の値なので、行列を解かずに次々と更新できます(だから「陽」解法)。 ただし FTCS には有名な弱点があります。時間刻みが安定条件
$$ \Delta t \;\le\; \frac{\Delta x^2}{2D} $$
を破ると、数値誤差が 1 ステップごとに増幅され、解が爆発します。
なぜこの条件になるのか(フォン・ノイマン安定性解析)はフェーズ4で導出する伏線として、
ここでは「破るとどうなるか」を自分の目で見てください。下のコードは安定限界に対する倍率
safety を変数として持っています。コード枠内は直接編集できます:
まず safety = 0.9 のまま実行して安定な振る舞いを確認し、
次に枠内の 0.9 を 1.1 に書き換えてもう一度実行してみてください
(コードをコピーして手元の Jupyter で試しても同じ結果になります)。
# 1次元拡散方程式を陽解法(FTCS)で解く
# dc/dt = D d2c/dx2, 両端は流束ゼロ(ノイマン境界)
import numpy as np
L, D, Nx = 100e-6, 1.0e-10, 101 # 長さ [m], 拡散係数 [m2/s], 格子点数
dx = L / (Nx - 1) # 格子間隔 [m]
x = np.linspace(0.0, L, Nx)
dt_limit = dx**2 / (2.0 * D) # 陽解法の安定限界 [s](フェーズ4で導出)
safety = 0.9 # ★ 1.1 に変えて再実行 → 不安定を観察!
dt = safety * dt_limit # 実際に使う時間刻み [s]
c = np.where(x < L / 2, 1000.0, 0.0) # ステップ状の初期濃度 [mol/m3]
total0 = (0.5 * c[0] + c[1:-1].sum() + 0.5 * c[-1]) * dx # 総量(台形則)
t_end = 2.0 # シミュレーション時間 [s]
nsteps = int(t_end / dt)
for n in range(nsteps):
lap = np.empty_like(c) # ラプラシアン d2c/dx2 の離散近似
lap[1:-1] = (c[2:] - 2.0 * c[1:-1] + c[:-2]) / dx**2
lap[0] = 2.0 * (c[1] - c[0]) / dx**2 # 鏡像ノードで流束ゼロを表現
lap[-1] = 2.0 * (c[-2] - c[-1]) / dx**2
c = c + dt * D * lap # FTCS:1 ステップ前進
total = (0.5 * c[0] + c[1:-1].sum() + 0.5 * c[-1]) * dx
print(f"dt = {dt:.3e} s(安定限界の {safety} 倍)、ステップ数 = {nsteps}")
print(f"総量 [mol/m2]: 初期 {total0:.6e} → 最終 {total:.6e}")
print(f"濃度の範囲: min = {c.min():.3e}, max = {c.max():.3e} mol/m3")
c_plot = np.clip(np.nan_to_num(c), -2000.0, 4000.0) # 発散時も描けるよう制限
plot_spec = {
"traces": [
{"x": (x * 1e6).tolist(), "y": np.where(x < L / 2, 1000.0, 0.0).tolist(),
"name": "初期分布", "mode": "lines", "line": {"dash": "dash"}},
{"x": (x * 1e6).tolist(), "y": c_plot.tolist(),
"name": f"t = {t_end} s(FTCS)", "mode": "lines"},
],
"layout": {"xaxis": {"title": {"text": "位置 x [µm]"}},
"yaxis": {"title": {"text": "濃度 c [mol/m³]"}},
"title": {"text": f"FTCS による拡散(safety = {safety})"}},
}
# Jupyter で描くなら: import matplotlib.pyplot as plt; plt.plot(x*1e6, c); plt.show()
注意:安定限界のすぐ上で何が起きるか
safety = 0.9 ではステップがなめらかに均されるのに対し、
safety = 1.1 にすると、出力の min/max が $10^{20}$ のような桁外れの値になり、
プロットは格子 1 点ごとに符号が反転する激しいギザギザ(表示は ±の範囲にクリップ済み)になります。
物理が変わったのではなく、差分スキームが格子スケールの誤差を毎ステップ約 1.2 倍に増幅している
のが原因です。安定限界 $\Delta t \le \Delta x^2/(2D)$ は $\Delta x$ を半分にすると
$\Delta t$ を 1/4 にせよと要求するため、細かい格子では陽解法は非常に高くつきます。
図0.2 で使った Crank–Nicolson 法(無条件安定)がその処方箋です — 詳しくはフェーズ4で。
0.6 スケール感を掴む — Chen2020 パラメータで見積もる
道具 $\tau = L^2/D$ を手に入れたので、さっそく実戦投入しましょう。 リチウムイオン電池の中には拡散が(少なくとも)2 種類あります: 粒子内の固相拡散(長さスケール = 粒子半径 $R_s$、係数 $D_s$)と、 電極厚み方向の電解液拡散(長さスケール = 電極厚さ $L$、係数 $D_e^{\mathrm{eff}}$)です。 ここで $D_e^{\mathrm{eff}} = D_e\,\varepsilon_e^{b}$ [m²/s] は実効拡散係数: 電極は粒子が詰まった迷路なので、イオンは細孔を迂回しながら進むぶん拡散が遅くなります。 空隙率 $\varepsilon_e$ [−](電解液の体積分率)と Bruggeman 指数 $b = 1.5$ [−] による補正 $\varepsilon_e^{1.5}$ がその迷路効果です(由来はフェーズ1で説明します)。 $D_e$ には初期濃度 $c_{e0} = 1000$ mol/m³ での値 $D_e = 1.77 \times 10^{-10}$ m²/s(params.js の Nyman フィット)を使います。
まず 1 行だけ手計算してみます。正極粒子($R_p = 5.22$ µm、$D_s^+ = 4.0 \times 10^{-15}$ m²/s)では:
$$ \tau_{s}^{+} = \frac{R_p^2}{D_s^+} = \frac{(5.22 \times 10^{-6}\ \mathrm{m})^2}{4.0 \times 10^{-15}\ \mathrm{m^2/s}} = \frac{2.72 \times 10^{-11}\ \mathrm{m^2}}{4.0 \times 10^{-15}\ \mathrm{m^2/s}} \approx 6.8 \times 10^{3}\ \mathrm{s} $$比較対象は放電にかかる時間です。1C とは「公称容量を 1 時間で使い切る電流」のことで、 放電時間は 3600 s(2C なら半分の 1800 s、5C なら 720 s)。Chen2020 セルの 1C は 電流密度にして $I_{1C} = 48.7$ A/m² です。全部の現象について同じ計算をすると:
| 現象 | 長さスケール | 拡散係数 | $\tau = L^2/D$ | $\tau / 3600\,\mathrm{s}$(対 1C) |
|---|---|---|---|---|
| 負極粒子内の固相拡散 | $R_n = 5.86$ µm | $D_s^- = 3.3\times10^{-14}$ m²/s | $1.0\times10^{3}$ s | 0.29 |
| 正極粒子内の固相拡散 | $R_p = 5.22$ µm | $D_s^+ = 4.0\times10^{-15}$ m²/s | $6.8\times10^{3}$ s | 1.9 |
| 電解液拡散(負極内) | $L_n = 85.2$ µm | $D_e^{\mathrm{eff}} = 2.2\times10^{-11}$ m²/s($\varepsilon_e = 0.25$) | $3.3\times10^{2}$ s | 0.091 |
| 電解液拡散(セパレータ内) | $L_s = 12.0$ µm | $D_e^{\mathrm{eff}} = 5.7\times10^{-11}$ m²/s($\varepsilon_e = 0.47$) | $2.5$ s | 0.0007 |
| 電解液拡散(正極内) | $L_p = 75.6$ µm | $D_e^{\mathrm{eff}} = 3.4\times10^{-11}$ m²/s($\varepsilon_e = 0.335$) | $1.7\times10^{2}$ s | 0.046 |
| 電解液拡散(セル全体の目安) | $L = 172.8$ µm | $2.2\times10^{-11}$ m²/s(最も遅い負極の値で安全側評価) | $1.4\times10^{3}$ s | 0.38 |
この表から、DFN 学習の残りすべてを方向づける結論が読み取れます:
- 正極粒子の固相拡散が圧倒的に遅い($\tau \approx 6.8\times10^3$ s は 1C 放電時間の約 2 倍)。 つまり 1C 程度の穏やかな放電ですら、正極粒子の中の濃度は均されるヒマがなく、 表面と中心に大きな濃度差が残ります。 だから最簡モデルの SPM でさえ、粒子内の $c_s(r,t)$ の偏微分方程式は省略できないのです(フェーズ2)。
- 電解液の拡散は 1C では「やや余裕」だが、無視できるほどではない (セル全体で $\tau \approx 1.4\times10^3$ s、対 1C 比 0.38)。2C 以上ではプロファイルが緩和しきらないまま 放電が進み、電解液の濃度勾配が電圧損失として顔を出します。 これが SPM → SPMe に進む動機です(フェーズ3)。
- セパレータ内の拡散は常に高速($\tau \approx 2.5$ s)。セパレータが性能ボトルネックに なることはめったにない、という工学的な相場観と一致します。
スライダーで粒子半径 $R_s$ と固相拡散係数 $D_s$ を動かすと、粒子内拡散の特徴時間 $\tau = R_s^2/D_s$ が 1C/2C/5C の放電時間と棒グラフで比較されます(縦軸は対数)。 ボタンで Chen2020 の負極・正極の実値をセットできます。 $\tau$ が放電時間と同程度以上なら、放電中に粒子内の濃度勾配が均されずに残る — つまり粒子内拡散をきちんと解く必要がある、と読みます。 粒子半径を半分にすると $\tau$ が 1/4 になる($\tau \propto R_s^2$)ことも確かめてください。 急速充電向けセルが小粒径の材料を使う理由がこの 1 枚に詰まっています。
まとめ:フェーズ0 で手に入れたもの
- セルは「負極|セパレータ|正極」の多孔質サンドイッチで、電子とイオンの通り道が分離されている。 反応はインターカレーション:$\mathrm{LiC_6} \rightleftharpoons \mathrm{C_6} + \mathrm{Li^+} + \mathrm{e^-}$(負極)。
- DFN はマクロ座標 $x$ の各点にミクロ座標 $r$ の粒子問題がぶら下がる「擬似二次元」構造。 登場する場は $c_s, c_e, \phi_s, \phi_e, j$ の 5 つ+出力 $V$。
- 電圧の骨格は $V \approx \mathrm{OCV} + $(反応・オーム・拡散の 3 損失)。損失の計算が DFN の仕事。
- 拡散方程式 $\partial c/\partial t = D\,\partial^2 c/\partial x^2$ は「フィックの第一法則+質量保存」。 ノイマン境界(流束指定)が DFN の標準で、流束ゼロなら総量保存。
- 特徴時間 $\tau = L^2/D$ で見積もると、Chen2020 セルでは正極粒子内拡散($6.8\times10^3$ s)が 1C 放電(3600 s)より遅い — 粒子内拡散こそ主役、電解液は高レートで効く。
0.7 理解度チェックと次章への橋渡し
理解度チェック
-
放電時、負極粒子の表面では酸化・還元のどちらが起きるか。半反応式を書き、
生成した Li⁺ と e⁻ がそれぞれどの経路で正極にたどり着くかを説明せよ。
また本サイトの符号規約では、このとき負極の界面電流密度 $j$ の符号はどうなるか。
解答
酸化が起きる:$\mathrm{LiC_6} \to \mathrm{C_6} + \mathrm{Li^+} + \mathrm{e^-}$。 Li⁺ は電解液に溶け出し、負極の細孔 → セパレータの細孔 → 正極の細孔と、 セルの内部を拡散・泳動して正極粒子表面へ向かう。 e⁻ は粒子 → 銅集電体 → 外部回路(負荷) → アルミ集電体 → 正極粒子と進む。 電解液は電子を通さないため、この 2 経路は決して混ざらない。 符号規約(酸化を正)より、放電時の負極では $j \gt 0$(正極では $j \lt 0$)。 -
DFN モデルが「擬似二次元(P2D)」と呼ばれる理由を説明せよ。
「本当の 2 次元問題」とはどこが違うか。また、マクロの世界($x$)とミクロの世界($r$)は
何を通じて結合しているか。
解答
セル厚み方向のマクロ座標 $x$ に加えて、各 $x$ 点の粒子内部に半径座標 $r$ の 1 次元拡散問題がぶら下がっているから。$x$ と $r$ は同一空間の直交座標ではないので、 $\partial^2 c/\partial x^2 + \partial^2 c/\partial r^2$ のような 2 次元ラプラシアンは現れず、 「1 次元の族が並んだ」構造になる(だから「擬似」)。 両世界の結合は粒子表面の境界条件 $-D_s\,\partial c_s/\partial r|_{r=R_s} = j/F$、 すなわち反応流束 $j$ のみを通じて起こる。 -
両端が流束ゼロ(ノイマン)境界のとき、総量 $\int_0^L c\,dx$ が時間変化しないことを、
連続の式 $\partial c/\partial t = -\partial N/\partial x$ から示せ。
この性質は電池モデルの何に対応するか。
解答
連続の式を $x$ で $0$ から $L$ まで積分すると $\frac{d}{dt}\int_0^L c\,dx = -\int_0^L \frac{\partial N}{\partial x}dx = N(0,t) - N(L,t)$。 両端で $N = 0$ なので右辺はゼロ。よって $\int_0^L c\,dx$ は一定。 電池では「セル内のリチウム総量は保存される」(集電体をイオンは通れない)ことに対応し、 数値解の検算(保存則チェック)にも使う。図0.2 では初期比 100.000000 % のまま動かないことで確認できる。 -
正極粒子($R_p = 5.22$ µm、$D_s^+ = 4.0\times10^{-15}$ m²/s)の拡散時間 $\tau$ を計算し、
1C 放電時間 3600 s と比較して、その物理的な帰結を述べよ。
また、粒子半径を半分にできたら $\tau$ はどうなるか。
解答
$\tau = R_p^2/D_s^+ = (5.22\times10^{-6})^2 / (4.0\times10^{-15}) \approx 6.8\times10^3$ s。 3600 s の約 1.9 倍なので、1C 放電の間に粒子内の濃度勾配は均されない。 表面濃度が平均より先に変化して電圧を「先回りして」下げるため、 粒子内拡散 PDE を解かないモデルは 1C ですら不正確になる。 $\tau \propto R_s^2$ なので半径を半分にすれば $\tau$ は 1/4(約 1.7×10³ s)になり、 拡散損失は大幅に軽くなる(小粒径化が急速充電に有利な理由)。
次章への橋渡し
これで役者(変数たち)と舞台(多孔質サンドイッチ)、そして基本の演技(拡散)が揃いました。 フェーズ1では、この章の物理像を数式に翻訳して、DFN モデルの 5 本の支配方程式を 1 本ずつ導出します:
- 固相拡散 — 0.5 節の収支勘定を球殻でやり直すと $r^2$ 因子つきの拡散方程式が出る。
- 液相の物質保存 — 多孔質中の拡散方程式に、反応ソース項 $(1-t_+^0)\,aj/F$ が加わる。 輸率 $t_+^0$ [−] という新顔の意味もここで。
- 固相の電荷保存 — 電子の流れのオームの法則と、反応による電流の受け渡し。
- 液相の電荷保存 — イオン版オームの法則に、濃度勾配起因の項が加わった「修正オームの法則」。
- Butler–Volmer 式 — 0.4 節でぼかした「過電圧 $\eta$ と反応速度 $j$ の関係」の正体。
導出のあらゆる場面で、この章で作った直感 —「どの変数がどこに住むか」「境界条件は流束の言葉で書く」 「スケールを見積もってから解く」— を使い倒します。準備はできました。方程式の世界へ進みましょう。